野村克也(敬称略)が亡くなった。
訃報の後、テレビやネットなどで野村の野球人としての功績を称える記事をたくさん目にするが、現役時代の野村の凄さを語るメディアは少ない。それはパリーグが人気のない不遇の時代に野村が全盛期を過ごしたからだとある人が指摘しているが、全く的を得ていると思う。
野村がいた南海ホークスの本拠地大阪球場、阪急ブレーブスの西宮球場、近鉄バッファローズの日生球場などは閑散としていつも閑古鳥が鳴いていた。パリーグの球団の試合がテレビ中継されることも日本シリーズくらいで、シーズン中はあまりなかった。野村に限らず、阪急の福本、東映の張本、古くは西鉄の稲尾らの全盛期のプレーを見た人はそう多くないはずである。
多く入っても何千人という少ない観衆の中で野村がホームランを打ってもそんなに脚光を浴びず、「ひまわり」の長嶋に比べて自分は「月見草」だとぼやいたのは無理はない。
しかし、京都丹後のど田舎の貧しい母子家庭に育ち、テスト生で南海に入団し、先輩の遊びの誘いを断って毎日素振りの練習に明け暮れて人知れず努力した話や、母親に安月給から毎月1000円仕送りしていたという下積み時代の美談は昔から聞いていた。
華やかでメディアの脚光をいつもあびる長嶋や王への反骨心があったと朴訥に話し、また苦労するだけの人生だったと母親のことを涙を流して話す野村には、同じ京都出身ということもあるが、人間味があり親近感を持っていたことは確かである。