彼岸の中日の3月21日は亡父の弟、叔父高橋土松の命日です。
昭和20年3月21日、叔父はビルマ(現在のミャンマー)で戦死しました。享年27歳でした。
まおっちゃんと呼ばれていた叔父は、普段勉強しないのに学校で1,2を争うほどの秀才だったが、幼少時に父親が病死し家が貧しく上の学校に進学出来なかったことや、学費が払えなくても「他にもいるから」と母親に心配かけまいとする親孝行の人だったことなど、私は幼い頃に父母や親戚からよく聞かされました。
京都の大江町発行の郷土の戦没者を伝えた「礎」という本によると、叔父は京都の会社に勤務した後、昭和14年12月歩兵38連隊に入営、幹部候補生に採用され豊橋陸軍予備士官学校に入校、昭和18年8月陸軍少尉に任官、前途有為の青年将校となり原隊に復帰、よく部下を掌握し戦闘指揮に当たり、連隊副官としてビルマ作戦に参加中、昭和20年3月21日ビルマ国シュエダマン西方3キロの地点で左胸部穿透性盲管砲弾破片創を受け戦死した、と書かれています。
同書では、「氏は幼にして父を失ひしも、よく母を助け孝養を怠らず兄と仲睦まじく、母も稀に見る賢母にして息子2人をかほそき女の腕にしつかと抱き、その育成に楽しみ教学に心を尽くし夜を日についで奮闘せられた。氏もまた母の薫陶により資性温順忍耐力に強く、不言実行の人であった」と記されています。
叔父は、死亡日からすると、昭和19年12月から昭和20年3月28日にかけて行われたイギリス連邦軍とのイラワジ会戦と呼ばれる戦闘で戦死したと思われます。その前の昭和19年3月に開始されたインパール作戦に参加していたのかは分かりません。食料や武器弾薬の補給を無視した太平洋戦争で最も無謀な作戦と言われるインパール作戦では、約2万の兵のうち約4分の3が餓えやマラリア、赤痢の伝染病で戦死したと言われています。同年7月初めに撤退命令が出て、もしかしたら白骨街道と化した道を敗走し生きのびた約4分の1の兵の中にいたのかも知れません。
異境の戦場で果てた叔父の無念な思いや、愛する子供の悲報を聞いても人前では決して涙を見せなかったという息子の帰国を田舎でひとり待ち続けた祖母の悲嘆はどのようなものであったか。
それから73年の歳月が流れた今も、戦争でこのような悲惨な思いをした人々が日本中に何百万人、何千万人もいたことを決して忘れてはならないと思います。